
……以降は独学で書を勉強し、今に至っています。先生について習おう、書道教室に行こうなどとは少しも思いませんでした。
その理由は三つあります。
一つ目は、上達のためには、高校生の頃に行っていた「臨書」を続ければ良いのだとわかっていたからです。「こんな字が書けるようになりたい」と思った「古典」とそっくりになるまで練習する……これが練習のすべてです。それならば、先生が書いた手本ではなく、最初から古典を習った方が効率的だし、学習効果も望めるに違いありません。
二つ目の理由、それは至って単純な「習いに行くなんて面倒だ」という思いでした。
この思いは、大人になってから書を始めようと思う方々にとって共通の問題でしょう。仕事や家庭の用事で決まった時間が取りにくい、誰に習えば良いのかわからないし、そもそも行くのが面倒だ……こうした理由から、「やってみようかな」と思ってもなかなか実行できないのです。
しかし、書は本来、自宅で、好きな時にできる趣味であり、独学で十分上達できる習い事です。ですから、折角の「やりたい!」という思いが、習いに行くことの面倒さによって妨げられるのはもったいないことです。
それならば、最初から「基本は独学」と言い切ってしまった方がはるかに有益ですし、むしろ、最初の手ほどきさえ済ませてしまえば、以降は独学の方が自由に書を楽しめて、上達の可能性もより高まると私は思っています。
そして理由の三つ目。それは、「書道」「茶道」「華道」といった「道」の字が付く習い事にありがちな「胡散臭さ」や「非合理性」を、当時から痛切に感じていたからです。
私の母は茶道の先生でした。
私も気の向いた時にお茶を習っていましたが、通って来るお弟子さんたちから、「さすが、先生の息子さんね。もうお点前ができるようになるなんて」と言われていました。しかし、私のお稽古は気の向いた時だけ、せいぜい月に一回程度です。一方、彼女たちは毎週お稽古に通って来ています。
それなのに彼女たちよりもはるかに早く一通りのお点前ができるようになった理由、それは、「勝手に自分で習っていたから」でした。
茶道では、「割り稽古」というものを行います。お点前の中の一部分を分割して習う稽古の方法です。早くお手前ができるようになりたかった私は、考えた末に、家にある茶道の本の中から適当な一冊を選び、そこに書かれていた点前の順序を先の覚え、道具を使わずにシミュレーションを行いました。これならどこでも簡単に行うことができます。
そして、一通りの自分なりの稽古を終えた後、母の前で初のお点前に挑戦しました。
途中、戸惑うことはありましたが、無事にお手前を終えることができました。母は驚きましたが、一発でできた理由は、慣習や先生のやり方に従わず、自分の頭で考えた結果として先に点前の順番を覚えてしまったことにあります。
お茶というものは、点前の始めから終わりまでが実に無理なく流れるようにできています。先に順番を覚えたことによって、「手近のことを処理すればよい」と理解できていましたから、所作に戸惑った時も、冷静に考えることで次の所作を思い出すことができたのです。
こうした経緯で、「いつまで経っても割り稽古」のお弟子さんと、「一発お点前」の私に、大きなスピードの差が生じたのです。

<「道」の実態>
その時に感じたのは、「○○道の『道』というのは、先生に収入をもたらすシステムのことを言うんだな」ということでした。「道」という名目の元に、目標や期限を決めずに稽古を行えば、長期間にわたって月謝が入ります。「道」の中での位や称号を設定すれば、授与に対する謝礼が入ります。それを成立させているのが「道」という一文字がもたらす意識なのです。
こうした実情は、「書道」の世界でも同じです。
いきなり意味も分からぬ漢詩の一部を書いた手本を習わされる……これでは自分がどこに向かっているのかもわかりません。展覧会システムの中に組み込まれて無理やり出品させられても、お金と手間が掛かるばかりです。段級位が上がり、最後には師範の資格を取ったとしても、それは何ら公的なものではありません。
ましてや「二年で師範の免状。取得後は仕事の依頼が続々」「実用書道で家庭で楽々副収入!」などといった宣伝文句を掲げる通信教育など、業者を儲けさせるためだけの空疎なものでしかありません。
以上のような理由から、私は現在まで独学で「書」を続けています。そして、再び筆を手にして以降、書道教室の先生、書道会の事務局勤務の方、○○展の審査員の方、専門誌の編集者など、「書道」に関わる人とたくさんお会いしましたが、その度ごとに、独学を選んで本当に良かったと思うばかりでした。
現在、多くの人が「書をやろう」と思うのは、その手軽さゆえなのであり、それが「習いに行くことの面倒さ」によって妨げられるのであっては本末転倒です。また、習いに行くことによって勉強の幅が狭まったり、楽しみのはずが義務になったり、「書道結社」にまつわる余計な義理事や心労や出費を被ったり、根拠無き書道界の通説(これが実にたくさんあるのです)を吹き込まれたりするのであれば、これはもはや弊害でしかないと思うのです。
書は地味なものかも知れませんが、しかし、昨今の日本語回帰の現象とともに、再び筆を手にしたいと思う人が増えていることは、現代人の心が欲する何らかの要素を多分に有しているのでしょう。だからこそ、予測されるストレスがあるのならば、それは最初から排除して、本来の楽しみを素直に感じることができるスタンスに立つべきだと思うのです。そうした意味で、「書道」ではなく「書」をやろうと私はお勧めしています。